歴史 高杉晋作(東行)東行庵

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高杉晋作(東行)東行庵

Takasugi Sinsaku(Tougyou)

東行庵 (代) 0832-84-0211 山口県下関市大字吉田1184 寺院 地図リンク

高杉晋作(東行)

 1839年8月20日、長州藩士高杉小忠太の長男として萩市菊屋横町に生まれ、藩校明倫館や江戸の昌平坂学問所で学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰にも師事し、頭角を現しました。
 1862年長州藩を代表して幕府の貿易視察団に加わり、中国上海に渡った晋作は、ヨーロッパ諸国の半植民地と化した街をみて、大変な衝撃を受けます。幕府に外交を任せていては、日本も中国の二の舞いとなると判断した晋作は、下関防備のため翌年6月、奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外の庶民の入隊も許した、画期的な軍隊でした。
 1864年8月、長州藩は関門海峡に攻め寄せた英米仏蘭の連合艦隊17隻と砲火を交え、敗れます。晋作は藩を代表して講和談判にのぞみ、賠償金の要求を見事にはねつけました。しかし、長州藩の藩論が、幕府に恭順謝罪に傾いた時、晋作は僅か80名を率いて下関で決起し、やがて内戦のすえ勝利し、藩の主導権を握ります。
 1866年長州に攻め寄せた幕府軍15万に、晋作たちは僅か3千で立ち向かいます。そして奇襲を重ね、ついに勝利しますが、結核が悪化し、病死。
 1867年4月14日下関市新地で病死するまで僅か27年7ヶ月という短い一生を、これほど激しく燃えつくした人はいなかった。
 近代日本のあけぼの明治維新の最大の推進力は長州藩であったが、その長州藩をひっぱって行ったのは実に彼であった。彼の創設した奇兵隊に明治維新の精神があるともいえる。
 つねに大局をつかみ、敢然と一歩先を歩み続けた高杉東行こそ、今日における最も期待される人物像である。

「おうの」

 高杉東行の側室(愛人)おうのは東行の死後、尼となり谷梅処と名乗って、その墓をまもり菩提をとむらった(東行庵主梅処尼)。東行庵は明治17年かつての同志ら(山縣有朋<やまがた−ありとも第3代内閣総理大臣>、伊藤博文ら)の寄附によって建立された。現在、東行庵は宗教法人で曹洞宗である。

東行の墓

 奇兵隊により建立され昭和9年国の史蹟に指定された。

福田公明(侠平)

晋作の親友で奇兵隊軍監の福田は明治元年に没し、遺言により晋作の墓の隣に葬られました。

東行庵

東行庵

東行庵

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

東行庵

東行庵

東行庵

東行庵

福田公明

福田公明

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

高杉晋作

福田公明

福田公明

福田公明

高杉晋作

高杉晋作

おうの

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