ふるさと小野 史跡案内

画像表面

墓 石碑 歴史

1.桂就政の墓
2.志賀親次の墓
3.鈴賀三郎の墓
4.桂信昌夫婦の墓
5.毛利秀就公産湯の池
6.古代遺跡の発掘地
7.忠魂碑
8.鷹ノ子山城祉
9.山伏の墓
10.役の行者修験場跡地
11.財満越前の守忠久の墓
12.代官屋敷の穴蔵跡
13.西御前 御土居
14.内藤隆春守神の祠
15.粟屋家の墓
16.平家の女郎墓跡
17.えんこうの墓
18.分教場の跡地
19.シゲの大岩
20.野邑翁の碑
21.檪良氏の墓(なぎら)
22.故人の顕彰碑
23.耕地整理記念碑
24.山尾庸三先祖の墓
25.浄水記念碑
26.藤河内のモミノキ

墓 石碑 歴史 解説

1.毛利の重臣 桂就政の墓 (阿武瀬)
桂就政は平城天皇系図19世親衡(ちかひら)の次男毛利匡時が桂家の祖先で、5代の広澄が広島県桂邑に住み、それが桂家の初代。その7代目の元澄が毛利輝元に従って萩に移り、9代目の就政は毛利秀就と綱広に仕え、財満氏の後、小野に来て寛文8年(1668年)32歳で死去し、ここに埋葬された。
2.志賀親次の墓 (上宇内)
九州大友氏の重臣であった志賀親次の墓がある。墓碑の正面には「岡城主志賀小左衛門親次墓」と書いてある。碑文によると、志賀の先祖は藤原鎌足の子孫大友家に続き、九男能郷(よしさと)は豊後の国大野郡志賀を領地として志賀の姓を名乗り、建武年間(1334年~1337年)に岡城(大分県竹田市)の城主であった。後に大友家没落にともなってそこを去り、転々としたのち万治3年(1660年)この近くで死去したという。
3.鈴賀三郎の墓 (市小野)
記録には今から600年前に流行した悪病と農作物の害虫退治のため、寄進を続ける祈願として、当屋を定めて部落が三戸になるまで「念仏踊り」を伝承すると書いてある。
防長風土注進案に「市小野村に昔から念仏踊りの家筋があり、その道具を作る家筋の人物が鈴賀三郎。冠・鉦・太鼓など、道具をつけて雨乞山(市小野嶽)でみんなが踊ると間違いなく雨が降りだしていた」と書いてある。鈴賀三郎の子孫はどこに行ったか不明。
4.桂信昌夫婦の墓 (両川)
桂信昌は元総理大臣桂太郎の祖父という。そばに子や孫の墓が並んでいる。ここから上方の石段を登ると大きな塚台がある。桂家の守護神といわれている。
5.萩藩主毛利秀就 産湯の池 (東阿武瀬)
毛利輝元公の側室二之丸様は、広島からここの領主財満家に預けられた。萩藩初代の藩主毛利秀就公は、文禄4年(1595年)4月18日、この屋敷の別部屋にて誕生という。この時の秀就公の産湯の池や、池に水を引く横穴、また秀就公幼少の頃、乗馬に使った「馬乗り石」もある。屋敷内には秀就公の成長祈願の若宮社が現在も当時の面影を残している。
6.小野平原遺跡 (平原)
平成14年(2002年)に縄文時代の石斧(せきふ)や中世の集落跡が発見された。
7.忠魂碑 (上小野)
ここには、明治以後の戦争で、戦死した小野出身の199名が英霊として祀られている。
8.鷹ノ子山城址 (藤河内)
山口県風土誌によれば、厚狭郡藤河内村の鷹ノ子山城址は、文中3年(1374年)厚東氏が大内氏に攻められたとき、九州の菊地武光は厚東幸政を助けるため、兵2000騎をもって、鷹ノ子山城に陣をしいて戦った古戦場といわれている。
9.山伏の墓
 
10.役の行者修験場跡地
 
11.財満越前の守忠久の墓
 
12.代官屋敷の穴蔵跡
 
13.西御前御土居
 
14.内藤隆春守神の祠
 
15.粟屋家の墓
 
16.平家の女郎墓跡
 
17.えんこうの墓
 
18.分教場の跡地
 
19.シゲの大岩
 
20.野邑翁の碑
 
21.檪良氏の墓(なぎら)
 
22.故人の顕彰碑
 
23.耕地整理記念碑
 
24.山尾庸三先祖の墓
 
25.浄水記念碑
 
26.藤河内のモミノキ (藤河内)
宇部市指定の天然記念物。市内の巨樹の中でも最大級で、楠地区から移し植えたものといわれ、樹齢は約200年と推定されている。

神社関係

1.大歳神社
2.横瀬八幡宮と縁起絵巻
3.竜神社(水神社)
4.武内神社
5.河内社(神内社)
6.聖徳社
7.荒神社(三宝荒神)
8.庚申塚(幸神塚)
9.道祖神(塞の神)
10.山王権現社
11.熊野権現杜
12.広矛神社
13.横瀬八幡宮の跡地
14.藤河内八幡宮・檪原八幡宮
15.厳島神社
16.天満宮
17.えびす大神宮
18.弁財天社
19.金比羅社(金比羅権現)
20.秋葉神社
21.高良神社
22.若宮神社
23.古跡貴布称神社
24.明神社
25.王番社
26.神明宮
27.松堂社
28.住吉神社
29.稲荷大明神
30.金剛宮大明神
31.人丸社
32.八王子社
33.愛宕社
34.山の神社
35.森様
36.いぼ神様
37.火よけ社
38.井手守り様

神社関係 解説

①村里開闢の祖 大歳神社(市小野)
この大歳神社は延喜2年(902年)に、市小野を開いた人たちの霊を祀って建てられた。  後に天徳3年(959年)大年の神を祭神に迎えて大歳神社とした。祭の方法や氏子の氏名は祝儀式書に定められ、毎年12月23日を祭日として現在に至っている。現在建っている社殿は、この様式からみて18世紀中頃のものといわれている。  平成16年(2004年)に1100年祭を行った。
② 郷社 横瀬八幡宮 (上小野)
鎌倉時代の嘉暦2年(1327年)志賀将監大夫が厚東末信の正八幡宮から上小野字横瀬に勧請した。文明10年(1478年)宮ケ垰に奉遷の後、明治44年(1911年)現在地に遷宮した。 横瀬八幡宮の縁起絵巻は、室町時代の様子を見せる山口県指定文化財である。また、木造の狛犬は樫の木一材から丸彫りした貴重な文化財。桧材で彫った仮面や獅子頭なども保存されている。
③竜神社 (水神社)(美保ほか)
水神社と呼ぶ所も多い。山岳のある平原嶽の麓をはじめ、岩郷山の周辺などに多い。祠の傍には巨岩、大木などがあり、そこに神が宿ると信じられ、近くには滝水がある。昔は修験道信仰が盛んで山伏の修行の場所であった。明治政府が修験道を禁止してから、名称も水神社にして残している所もある。
④里人崇拝の神 武内神社 (棯小野)
建武元年(1334年)久留米の高良神社から移し松堂社を建てた。翌年武内宿称の神を招いて「松堂社武内神明」となり、宇津木村の総鎮守の宮にした。享保3年(1718年)神内大明神を合祀して「松堂武氏神明」と改めた。明神とは神を尊ぶ呼び名である。 昭和29年(1954年)棯小野住民の発起により社殿を新築し、武内神社とする。昭和55年(1980年)に650年祭、平成17年(2005年)に675年祭を行っている。
⑤河内社 (小野に22社残っている)
小野の中には河内社・神内社と呼んでいるお宮や社の跡がたくさん残っている。 河内社は天水分の神を祭神とした水の神である。水は生活の源。農業や生活には大切で、人の住む集落には必ず建ててお祭りやお参りなどをしていた。
⑥聖徳社 (瀬戸)
昔は上瀬戸の正徳という所にあったが、享和3年(1803年)現在地に移転した。瀬戸村に総鎮守の神とした。社殿には聖徳太子の額がある。
⑦火の神 竈の神 荒神社 (如意寺ほか)
三宝荒神社と呼んでいる集落もあるが、火は人の生活になくてはならないもので、炊事の神、保食の神、竈の神として、生活に救いを求めてきた先祖の人々の信仰心が偲ばれる。  小野のなかには集落の荒神社の他に、「竈の神・火の神」として、家の中の台所近くに竈の神を祀っている家も多い。
⑧庚申塚 (小野に23墓ある)
別には庚申彦大明神ともいい、庚申信仰と猿田彦信仰の習合で農業の神、悪魔を払う神。猿の知恵にあやかり、庚申の日に年の初集会や、申緒をはじめ農業支度の準備をした。庚申は干支で60日毎に巡る。人間の体には3尸の虫が宿っていて、主の行動を監視しているという。その虫が庚申の日の夜になると天に昇って主の悪行を告げるので、集落の者は夜が明けるまで「お日待ち」をして、3尸の虫が天に行くのをはばんでいた。それを3年続けると満願となり、庚申塚を建てて以後は毎年しめ縄をかけて祭りをして悪魔を撃退していた。
⑨道祖神 (塞の神)(両川ほか)
悪魔厄よけの神。集落の境にあって集落の中に邪霊の侵入を防ぎ、旅行く人は安全を祈って通った。ここを通る時は、この神に何でもよいから捧げて通らないと罰が与えられると信じ、恐れられていた。
⑩山王権現社跡 (下小野)
山伏の元祖修験道(しゅげんどう)の熊野権現から、大日如来や不動明王などと一体化し、仏が神に変じて人々を救うという神仏混淆(こんこう)の宗教。後に修験道は禁止され、廃仏棄釈令によって神社となった。ここには鳥居だけが残っている。
⑪歴史の古い熊野権現社 (花香)
今は社(やしろ)はないが、ここには古くからお宮があった。明治41年(1908年)に横瀬八幡宮に廃仏毀釈により権現を廃し、「熊野神社」として合祀されているが、今は社はなく、その鳥居と手水鉢は花香集会所の裏にある。狛犬は跡地の下の市道脇に建ててある。平成17年(2005年)に775年祭を行っている。
⑫広矛神社 (下小野)
以前は山王権現社で現在は鳥居だけが残っている。
⑬横瀬八幡宮跡地 (下宇内)
記録によると、嘉暦2年(1327年)上小野字横瀬に勧請された八幡宮は、応永13年(1406年)に他社替えの議が出て文明10年(1478年)下宇内字垰山に御遷宮。  そしてここを宮ケ垰と名づけられた。再び明治44年(1911年)に上小野に奉遷されてからは宮ケ垰は跡地となっている。
⑭檪原八幡宮 (檪原いちいばら)
小野大橋を渡って、県道から檪原へ行く市道に入ると鳥居がある。鳥居横には2対の灯籠があり、40の石段を登るとまた灯籠があり狛犬もある。さらに20段登ると境内に入る。社殿は間口4m近くの拝殿があって奥に神殿が続いている。  応神天皇を祀る八幡宮が相殿だが、河内社と並んで荒神社も合祀されている。拝殿の傷みを見ていると、ダム建設のためにふるさとを離れた人たちの郷愁の念が偲ばれてくる。
⑮三神の合祀社 (中宇内)
以前は各所に天満宮、河内社、厳島大明神が祀られていたが、一か所に統合してこの集落の高台に移転し、ご神体を祀っている。
 

仏関係

1.阿弥陀堂
2.古跡 福正寺観音堂
3.古跡 分国寺観音堂
4.正善寺と時習館
5.法泉寺と厨子
6.宝篋印塔
7.六十六部の墓
8.古跡 臨済宗如意寺
9.古跡 東専寺観音堂
10.慈母観音立像
11.経塚跡
12.不動明王堂
13.地蔵尊と六地蔵
14.宝林寺
15.養福寺と梅山顕彰碑
16.浄福寺
17.正恩寺
18.光林寺
19.光安寺
20.古跡 真言宗光福寺
21.古跡 法花宗清妙寺
22.古跡 禅宗東福寺
23.古跡 禅宗瑞林寺
24.古跡 禅宗東明寺
25.古跡 禅宗歓喜寺
26.古跡 禅宗観音寺
27.古跡 浄土宗寿妙院
28.古跡 阿弥陀堂
29.薬師堂
30.大師堂(お大師様)
31.観音堂
32.大日堂
33.大日如来像
34.菩薩堂
35.馬頭観音
36.石仏
37.弥勒菩薩像
38.子安観音
39.栄法寺

仏関係 解説

①阿弥陀堂 (上宇内)
寛弘3年(1006年)に、花山法皇の近臣津田孫四郎の開基の寺とある。今は本尊を残す阿弥陀堂があり、昭和32年(1957年)現在地に移して、里の人が春と秋の2回(4月降誕会、11月報恩講)、門徒を異にする三か檀那寺の住職を交互に招いて法要を行っている。心を打たれるのは、里人が毎日交代でご仏飯の給仕と荘厳を忘れていないことである。
②古跡禅宗福正寺の本尊十一面観音(岩川)
かつて、ここには禅宗の福正寺があった。今はその本尊を祀る十一面観音堂が建っていて観音堂という。  堂内には幅65cm高さ1.15mの厨子があり、背丈88cmの十一面観音菩薩立像がある。
③古跡禅宗分国寺 十一面観音菩薩 (藤河内)
昔、分国寺山に寺があった。里の人が浄土真宗に改めて、廃寺となった本尊を藤河内の廟に祀っている。廟内には阿弥陀如来像や十一面観音菩薩像・阿弥陀如来の画像などもある。  寺社由来書には分国寺の本尊は恵信作の十一面観音像で、弘法大師作の不動明王と毘沙門天が脇立てとしてある。お堂は寛文13年(1673年)に建て、明治13年(1880年)に再建した。この再建を契機に「藤河内十三日講」は終戦後もしばらく続いていた。
④正善寺と時習館 (大山)
この寺の沿革についてはいろいろの説があるが、最初は領主財満越前守忠久の菩提所臨済宗であったようだ。正善寺5世円西が浄土真宗に改めたとある。門前には高さ1.8mの「山本先生碑」という碑がある。  住職の山本洗心は安政年間(1854年~1860年)から明治初年(1868年)まで、寺小屋「時習館」を創設して多くの塾生を育てて尊敬されている。碑文は徳山の徳応寺住職赤松連城の書である。
⑤法泉寺厨子 (棯小野)
法泉寺は禅宗で、大内政弘の菩提寺として山口にあったが、天文20年(1551年)の陶氏の反乱の時、捻小野龍岩山に避難し、その後毛利輝元によって弘治3年(1557年)にそこで復興された。元和7年(1621年)に浄土真宗に改宗し、現在地に移ったのは宝永2年(1705年)である。 法泉寺には山口県指定の仏を納める厨子と、宇部市指定の「銅造浮彫菩薩形半像」の文化財がある。これらは大内氏の祈願所寿明院にあったもので、厨子は大内文化建築の特色を残しており、銅仏は大内氏の祖の琳聖太子が渡来時に持参したものと伝えられる。
⑥宝篋印塔 (棯小野)
インドから伝わる宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めていたが、後には高僧や武士の霊を弔うようになったといわれている。文化14年(1817年)建立。お経やお骨を納めた供養塔である。
⑦六十六部の墓 (臼木ほか)
臼木から藤河内に入る三差路の所に三体の地蔵様が建っている。その右側にあるのが「六十六部地蔵」である。「奉納大乗妙典」と「六十六部」の文字が彫られ、左側には「文化二丑」(1805年)が見られる。六十六部というのは諸国六十六か所を巡って、法華経を納めて歩いた修行僧のことで、これに一般信者も参加して経を埋めて経塚を建てたり、地蔵尊を奉納したりしている。瀬戸部落や両川部落にも六十六部の墓がある。
⑧臨済宗 崇如意寺 (如意寺)
この一帯を支配していた厚東盛俊の生母の追善供養のため建てた真言宗の寺。南北朝のころ臨済宗で再建した。薬師堂は弘治2年(1556年)再興とある。敷地中央にあるのは観音堂で、厨子の内には如意寺本尊の観音菩薩木仏座像が納められている。仏壇には厚東盛俊生母に似た姿の彩色女入坐像や不動明王像、さらに地蔵菩薩立像もある。 敷地左側の建物は薬師堂で、正面の厨子には薬壷(やくこ)を手に持った秘仏薬師如来立像があり、左右に日光菩薩・月光菩薩と12神将木像が並んでいる。
⑨観音岩 (平原)
高さ10m近くの夫婦岩が2基。古くはここに東専寺があり、岩穴には観音菩薩があった。昭和30年代までは、縁日には遠くからお詣りする人が多かった。
⑩慈母観音 (来見)
昭和19年(1944年)10月15日、金山の山中に新型戦闘機が飛行試験中に分解墜落し、殉職した陸軍2勇士の慰霊碑として建て、地元では毎年法要を行っている。
⑪一字一石経塚 (阿武瀬)
ここに法華崇寺があり、修行僧が法華経を納めた。桂房就建立の法華経塔がある。
⑫光福寺本尊 不動明王堂 (市小野)
およそ600年前、ここに真言宗の寺があった。古い記録によると創建は文明17年(1485年)とある。本尊は不動明王。脇侍(わきじ)に矜羯羅童子(こんからどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)を連れている。 平成8年の鑑定の結果、この不動明王座像は、今から600年前、室町時代(1338年~1573年)の作と判った。ここの不動明王は目黒である。
⑬地蔵尊と六地蔵 (棯小野ほか)
幼くして死んだ子供が、三途の川原で、母恋しと泣く。それを救ってくれるのが子安地蔵(こやすじぞう)。小野で今49体以上あるが、何故か江戸時代の飢饉の年に建立されたものが多い。 六地蔵は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこに逝っても、救いの手を差しのべる六道救済の菩薩という。なかには鬼子母神(きしもじん)の化身地蔵もある。
⑭近代建築の寺院 宝林寺 (西下小野)
 

画像裏面

制作/小野地区部落長会 編集/小野郷土史懇話会 発行/宇部市教育委員会 平成21年(2009年)3月

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2017年03月04日